七福神信仰の今昔

 人は、禍福を思って悩み、福運を求めて人生をさまよい、ゆえに神仏の信仰が生まれました。「開運」とひとことで片付けられないのが、人それぞれの願望が一様でないからです。家内安全、商売繁盛、縁結び、出産、成長、立身出世、学業成就、健康長寿など、人の願望にはいろいろあります。
 七福神の信仰も、こうした人の願望から発露したものです。
 仁王経という経典の中に、「七難即滅 七福即生」とあります。つまり、教え導くことを篤く信じ行えば、世の中の七つの大難(太陽、星の異変、火災、水害、風害、旱害、盗難)はたちどころに消滅し、七つの福が生ずるというのです。
 この七つの福というのは、その時代、その人の願望によって合理的に解釈されるもので、あなた自身の「心」の在り様といえます。といっても、七福神の神徳を信ずる事を篤くして、人生を救われる人がたくさんいることから、その信仰が現代に継承されていることは確かなのです。

では、七福神信仰の歴史
 鎌倉時代、日本古来の守り神恵比須(漁労、労働、商売などの守護神)の信仰に、中国を経てインドから大黒天(五穀豊穣、飲食の神)、弁財天(音楽、知恵、弁説、財福の神)の信仰が加わりました。室町時代にかけて、この三神の信仰が庶民の間に深まってきますと、毘沙門天(人倫の道、仏法の守り神)、布袋尊(吉凶の占い、家庭円満など福徳の神)、福禄寿(幸運、生活の安定、長寿の神)、寿老人(長寿延命の神)の四神が加えられて、人々の願望に応える七福神として信仰の象徴になったものと一般に理解されています。
 江戸時代、かの上野寛永寺の開祖天海僧正が徳川家康に説いて、寿命、有福、人望、清廉、威光、愛敬、大量を七福とし、為政者のあるべき姿としました。

 八代将軍吉宗のころには、世も太平がつづき、庶民も安逸をむさぼるようになります。江戸八百八町には、それぞれ名所が開発され、観光と神仏詣でを兼ねた行楽の気分が旺盛になりました。ちょうど、物資文明の差こそあれ、世界に冠たる高度な生活にひたっている現代日本の姿のようではありませんか!

 江戸末期には、商売繁盛、無病息災、各種大願成就の福徳、福運を求めて各地で七福神詣でが隆盛を極め、とくに正月松の内に巡拝して一年の福徳を願うようになったものが今日の七福神詣での形となったのです。
浅草名所七福神詣では、江戸市中でも有名だったのですが、戦後一時期中断のやむなきに至り、昭和五十二年に復活して今日 に受け継がれているものです。古くから江戸市民に霊験あらたかな福の神として親しまれてきています。


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